人から批判されることは、誰にとっても気分のいいものではありませんね。
でも、人間なら誰にでも、何か欠点はあるはずなのです。
面と向かって言われなくても、心の中では批判されているのですから・・・
誰も自分のことを相手にしてくれないと嘆いている人は、自ら相手にしにくい雰囲気をつくり出していないかを反省してみてください。
批判されると猛烈に反抗したり、すねて相手を無視してしまったりしていると、人からこの人には、何を言っても仕方がないと思われてしまいます。
批判をまったく受けつけず、いつもご機嫌を伺っていなければいけない人と付き合うのは、とても疲れるものです。
そういう人は、やがて誰からも敬遠されてしまうでしょう。
人から批判されなくなってしまったら、終わりです。
誰も自分のことを真剣に考えてくれていないということなのです。
批判されたときには、腹を立てる前に、まず自分のためになるのではという気構えをもって対応したいものです。
逆に、信頼のおける恋人や友人には、相手のためになることなら、ときには言いにくいこともはっきりと言ってあげるべきです。
人を批判する以上、いい加減なことは言えません。
自分の言葉に責任をもつ必要があります。
たがいに批判し合うことは、理解を深め合い、ともに成長することでもあるのです。
人を批判するときに注意すべきことは、こういう点が間違っているという事実のみを客観的に述べなくてはならない、ということです。
決して、「だからお前はダメなんだ」「あなたを見損なったわ」などと、相手の人格まで否定するようなことを言ってはいけません。
自分が他人から批判されたときも、指摘された内容を客観的に受け入れるくせをつけなければなりません。
相手にひどい言葉でののしられたとしても、それは相手の性格の問題であり、あなたの問題ではありません。
言い方がどうであれ、相手の指摘が正しいと思えば、謙虚に反省すべきです。
自分が人を批判するときは、相手の人格を否定しないよう言い方に気をつけ、自分が他人から批判されたときは、言い方に腹が立っても気にせず、正しいか間違っているかを客観的に判断してください。
批判に素直に耳を傾けられる大人になりたいものです。
2008年5月25日日曜日
自分の幸せ
痛みという感覚は、苦痛ですが、人がけがや病気を察知するために絶対に必要なものです。
痛みがなければ、人は自分の体をいたわることを忘れ、結果として寿命を縮めてしまうことになるでしょう。
痛みとは、人を苦しめるためではなく、少しでも長く生かすために与えられたものなのです。
不安というものも、人間が将来に起こりうる危険を予測し、回避するために必要な能力です。
でも、人の心を苦しめるのもまた、この不安です。
不安はまさに両刃の剣です。不安をうまく活用するか、不安に負けてしまうかが、その人の人格を大きく左右します。
人とうまく付き合えない人は、不安が強すぎる人です。
好きな人ができても、人を愛する喜びを感じる前に、嫌われたらどうしようということを考えてしまいます。
そういう人は、相手を喜ばせることをしてあげなければ、自分は受け入れてもらえないと思い込んでしまっています。
もちろん、他人が喜ぶことをしてあげるのは、いいことに違いありません。おおいにすべきです。
それは純粋に喜びのためにするのであって、喜ばせなければ不安だからという理由でするのでは、意味がありません。
間違った思い込みを今すぐに捨ててください。
人を喜ばせることをしなくても、あなたは受け入れてもらえるのです。
人間には誰にでも、その価値があります。
相手を喜ばせなければいけないという考えは捨て、まず、あなた自身が楽しむことです。
あなたが他人との付き合いを楽しめば、きっと相手も楽しいはずです。
あなたが不安ばかりにとらわれていては、相手も楽しくありません。
感情は伝染するものなのです。
自分はどう思われているかということばかり気にかけることで、他人からうとましく思われることはあっても、よけいに好かれるということは、絶対にありません。
自分に自信のある人は、なぜ不安を抱かずに人と付き合えるかというと、他人にどう思われるかということは、たいして気にかけていないからなのです。
当たり前のことですが、これはとても重要なことです。
それ以外では、自信のない人と何も変わりありません。
特殊な才能があるわけでも、価値が高いわけでもありません。
自信のある人は、自分は絶対に誰からも嫌われることはないなどとは思っていません。
たとえ自分を受け入れてくれない人がいても、自分の価値が下がるわけではないと考えているのです。
幸せな人とは、自分の喜びのために生きている人です。
真の幸せ、生きる喜びというものは、周囲にも伝わり、他人をも幸せにします。
そしてまた、人の幸せが自分に返ってきます。
幸せを追い求める必要はありません。
あなたという存在そのものが、幸せなのです。
ただ、それに気づくだけでいいのです。
痛みがなければ、人は自分の体をいたわることを忘れ、結果として寿命を縮めてしまうことになるでしょう。
痛みとは、人を苦しめるためではなく、少しでも長く生かすために与えられたものなのです。
不安というものも、人間が将来に起こりうる危険を予測し、回避するために必要な能力です。
でも、人の心を苦しめるのもまた、この不安です。
不安はまさに両刃の剣です。不安をうまく活用するか、不安に負けてしまうかが、その人の人格を大きく左右します。
人とうまく付き合えない人は、不安が強すぎる人です。
好きな人ができても、人を愛する喜びを感じる前に、嫌われたらどうしようということを考えてしまいます。
そういう人は、相手を喜ばせることをしてあげなければ、自分は受け入れてもらえないと思い込んでしまっています。
もちろん、他人が喜ぶことをしてあげるのは、いいことに違いありません。おおいにすべきです。
それは純粋に喜びのためにするのであって、喜ばせなければ不安だからという理由でするのでは、意味がありません。
間違った思い込みを今すぐに捨ててください。
人を喜ばせることをしなくても、あなたは受け入れてもらえるのです。
人間には誰にでも、その価値があります。
相手を喜ばせなければいけないという考えは捨て、まず、あなた自身が楽しむことです。
あなたが他人との付き合いを楽しめば、きっと相手も楽しいはずです。
あなたが不安ばかりにとらわれていては、相手も楽しくありません。
感情は伝染するものなのです。
自分はどう思われているかということばかり気にかけることで、他人からうとましく思われることはあっても、よけいに好かれるということは、絶対にありません。
自分に自信のある人は、なぜ不安を抱かずに人と付き合えるかというと、他人にどう思われるかということは、たいして気にかけていないからなのです。
当たり前のことですが、これはとても重要なことです。
それ以外では、自信のない人と何も変わりありません。
特殊な才能があるわけでも、価値が高いわけでもありません。
自信のある人は、自分は絶対に誰からも嫌われることはないなどとは思っていません。
たとえ自分を受け入れてくれない人がいても、自分の価値が下がるわけではないと考えているのです。
幸せな人とは、自分の喜びのために生きている人です。
真の幸せ、生きる喜びというものは、周囲にも伝わり、他人をも幸せにします。
そしてまた、人の幸せが自分に返ってきます。
幸せを追い求める必要はありません。
あなたという存在そのものが、幸せなのです。
ただ、それに気づくだけでいいのです。
2008年5月24日土曜日
自分自身に正直に
人にとってもっとも不幸なこととは、他人に傷つけられることでも、不慮の災難に見舞われることでもありません。
自分の弱さから目をそむけ、自分自身をごまかしながら、ただ虚しさの中で生きていくことこそが、最大の不幸です。
自分に自信がない人は、自分は価値のない人間だ、悪いのは自分だという言い方をします。
でも、本心ではそう思っておらず、自分を認めてくれない人に対して激しい憎しみを感じています。
それがみにくい感情であることは判っているので、あからさまに口に出すこともできず、巧妙にごまかしているだけなのです。
ごまかし、言い訳をしながら生きている自分にますます嫌気がさし、自己嫌悪は深まっていきます。
人を信頼しているなら、欠点も含めて、互いを認め合おうという意識が生まれるはずです。
それができないのは、どうせ他人は自分を見くだすに決まっていると、他人への不信感があるからです。
要するに、悪いのは他人なのです。
憎しみは、抑圧しているうちに、抑圧しているという意識さえなくなってしまい、自分でも自分の本心が判らなくなってしまいます。
自分を受け入れ、好きになるためには、まず自分の心をまっすぐに見つめ、自分に正直にならなくてはなりません。
人が憎いなら、憎いでかまいません。
私は人が憎いと、気のすむまで心の中で叫んでください。
それから、前向きに生きるためには、自分はどうすればよいのかと、解決策を探っていけばいいので。
いつまでも感情を抑圧し、ごまかしていては、成長はありません。
誰も本当の自分を理解してくれないと言う人にかぎって、他人の前で本当の自分をさらけ出そうとしないものです。
本当の自分を隠しているのに、理解されるはずがありません。
今日から、勇気を出して、少しずつ抑圧された心を開放し、自分を許し、他人に心を開いてみてください。
はじめは傷つくこともあるかもしれませんが、少しずつ成長していく自分を認めることは、大きな喜びとなるはずです。
自分の弱さから目をそむけ、自分自身をごまかしながら、ただ虚しさの中で生きていくことこそが、最大の不幸です。
自分に自信がない人は、自分は価値のない人間だ、悪いのは自分だという言い方をします。
でも、本心ではそう思っておらず、自分を認めてくれない人に対して激しい憎しみを感じています。
それがみにくい感情であることは判っているので、あからさまに口に出すこともできず、巧妙にごまかしているだけなのです。
ごまかし、言い訳をしながら生きている自分にますます嫌気がさし、自己嫌悪は深まっていきます。
人を信頼しているなら、欠点も含めて、互いを認め合おうという意識が生まれるはずです。
それができないのは、どうせ他人は自分を見くだすに決まっていると、他人への不信感があるからです。
要するに、悪いのは他人なのです。
憎しみは、抑圧しているうちに、抑圧しているという意識さえなくなってしまい、自分でも自分の本心が判らなくなってしまいます。
自分を受け入れ、好きになるためには、まず自分の心をまっすぐに見つめ、自分に正直にならなくてはなりません。
人が憎いなら、憎いでかまいません。
私は人が憎いと、気のすむまで心の中で叫んでください。
それから、前向きに生きるためには、自分はどうすればよいのかと、解決策を探っていけばいいので。
いつまでも感情を抑圧し、ごまかしていては、成長はありません。
誰も本当の自分を理解してくれないと言う人にかぎって、他人の前で本当の自分をさらけ出そうとしないものです。
本当の自分を隠しているのに、理解されるはずがありません。
今日から、勇気を出して、少しずつ抑圧された心を開放し、自分を許し、他人に心を開いてみてください。
はじめは傷つくこともあるかもしれませんが、少しずつ成長していく自分を認めることは、大きな喜びとなるはずです。
2008年5月22日木曜日
人を愛する
人を愛するためには、まず自分を愛することが絶対条件です。
自分を愛するとは、他人を顧みず、わがまま勝手、利己的になるということではありません。
不安や虚栄心から生まれるのは、まったく逆の、ゆがんだ形の自己愛です。
真の自己愛とは、はっきりと目覚め、自分の足でしっかりと地面を踏みしめながら歩いているという実感をもつことです。
仕事がつまらない、恋人が冷たい……。
自分の人生への不満を、他人のせいにしてはいませんか。
悪いことを他人のせいにすれば、一時的に楽なように思えますが、結局は自分自身を苦しめることになります。
今の世の中、人生を自由に選択できます。
どんなに消極的な選択であっても、それは自分の意思で選んだ結果なのです。
いやいやながら、人の言いなりになったのだとしても、自分の主張を通して面倒なことになるより、人の言いなりになる方が楽だと、最終的に決断を下したのは、自分自身です。
人間の尊厳にかけて、どうしてもやりたくないことは、凶器を突きつけられて脅迫でもされない限り、拒否することができるのです。
それによって何らかの不利益を受けても、自分で選択したことであれば、後悔はないはずです。
自分の人生が他人の意思によって決められてしまうのだとしたら、生きることに何の喜びがあるでしょう。
私たちは、奴隷でもロボットでもありません。
すべてが自分の思い通りになるわけではありませんが、自分で道を切り拓こうと最大限の努力している人は、人間として魅力があります。
もっともつまらないのは、自分の意思をもたずに、何でも他人任せにしておきながら、不満ばかり言っている人です。
もちろん、何でも悪いことを自分のせいだと考えて、落ち込んだりする必要はありません。
自分が、自分の人生の主人公になると考えればよいのです。
石につまずいて転んだら、石に腹を立てるのではなく、立ち上がって、今度はつまずかないように注意して歩けばいい。
道を間違えたら、標識の間違いを責めるのではなく、もとの位置へ引き返して、やり直せばいい。
そう考えるだけで、ストレスも、心の傷も、大きく減少するはずです。
正しい自己愛をもっている人は、いきいきとして、目が輝いています。
自分自身を心から愛せる人が、他人も愛することができるのです。
自分を愛するとは、他人を顧みず、わがまま勝手、利己的になるということではありません。
不安や虚栄心から生まれるのは、まったく逆の、ゆがんだ形の自己愛です。
真の自己愛とは、はっきりと目覚め、自分の足でしっかりと地面を踏みしめながら歩いているという実感をもつことです。
仕事がつまらない、恋人が冷たい……。
自分の人生への不満を、他人のせいにしてはいませんか。
悪いことを他人のせいにすれば、一時的に楽なように思えますが、結局は自分自身を苦しめることになります。
今の世の中、人生を自由に選択できます。
どんなに消極的な選択であっても、それは自分の意思で選んだ結果なのです。
いやいやながら、人の言いなりになったのだとしても、自分の主張を通して面倒なことになるより、人の言いなりになる方が楽だと、最終的に決断を下したのは、自分自身です。
人間の尊厳にかけて、どうしてもやりたくないことは、凶器を突きつけられて脅迫でもされない限り、拒否することができるのです。
それによって何らかの不利益を受けても、自分で選択したことであれば、後悔はないはずです。
自分の人生が他人の意思によって決められてしまうのだとしたら、生きることに何の喜びがあるでしょう。
私たちは、奴隷でもロボットでもありません。
すべてが自分の思い通りになるわけではありませんが、自分で道を切り拓こうと最大限の努力している人は、人間として魅力があります。
もっともつまらないのは、自分の意思をもたずに、何でも他人任せにしておきながら、不満ばかり言っている人です。
もちろん、何でも悪いことを自分のせいだと考えて、落ち込んだりする必要はありません。
自分が、自分の人生の主人公になると考えればよいのです。
石につまずいて転んだら、石に腹を立てるのではなく、立ち上がって、今度はつまずかないように注意して歩けばいい。
道を間違えたら、標識の間違いを責めるのではなく、もとの位置へ引き返して、やり直せばいい。
そう考えるだけで、ストレスも、心の傷も、大きく減少するはずです。
正しい自己愛をもっている人は、いきいきとして、目が輝いています。
自分自身を心から愛せる人が、他人も愛することができるのです。
2008年5月19日月曜日
毎日少しずつ
自分なりの目標を決め、努力しても、それが叶えられなかった時、それは誰の責任でもなく、「自分に能力がなかったから」それを認めるのが怖くて、最初からあきらめてしまっている人が多いのでしょう。
目標をもつということには、二通りのやり方があります。
ひとつは、高い最終目標をかかげ、そこに向かって一直線に努力するというやり方です。
もうひとつは、特にゴールを定めなくとも、毎日、簡単に実現できる小さな目標を決めて、少しずつ達成していくというやり方です。
あまりに高い山を見上げて、立ちすくみ、登るのをあきらめてしまうなんて、つまらないことです。
最初からあきらめて、何もしない人は、結局、「無為な人生を送ったことに対する責任」が自分にふりかかってきます。
自由に伴う責任からは、逃れられないのです。
頂上が見えなくても、毎日少しずつ、一歩ずつでも歩んでいきましょう。
ふと気づいて、振り返ってみれば、いつの間にかずいぶん登っていたな、と気づくことでしょう。
現在、どれくらいの高さの地点にいるかは、生まれもった才能や運などにより、個人差があります。
それよりもっと重要なことは、「少しでも上を目指して努力しているか」ということです。
高い地点にいても、あぐらをかいて怠けている人よりは、低い地点から這い上がろうと努力している人の方が、人間として魅力があります。
毎晩、寝る前に、「24時間前の自分と、今の自分とでは何が変わったか」を考えてみましょう。一日一日が、新鮮で、とても貴重なものに思えてくるはずです。
ほんのわずかなことでいいのです。簡単なことから、始めてみませんか。
目標をもつということには、二通りのやり方があります。
ひとつは、高い最終目標をかかげ、そこに向かって一直線に努力するというやり方です。
もうひとつは、特にゴールを定めなくとも、毎日、簡単に実現できる小さな目標を決めて、少しずつ達成していくというやり方です。
あまりに高い山を見上げて、立ちすくみ、登るのをあきらめてしまうなんて、つまらないことです。
最初からあきらめて、何もしない人は、結局、「無為な人生を送ったことに対する責任」が自分にふりかかってきます。
自由に伴う責任からは、逃れられないのです。
頂上が見えなくても、毎日少しずつ、一歩ずつでも歩んでいきましょう。
ふと気づいて、振り返ってみれば、いつの間にかずいぶん登っていたな、と気づくことでしょう。
現在、どれくらいの高さの地点にいるかは、生まれもった才能や運などにより、個人差があります。
それよりもっと重要なことは、「少しでも上を目指して努力しているか」ということです。
高い地点にいても、あぐらをかいて怠けている人よりは、低い地点から這い上がろうと努力している人の方が、人間として魅力があります。
毎晩、寝る前に、「24時間前の自分と、今の自分とでは何が変わったか」を考えてみましょう。一日一日が、新鮮で、とても貴重なものに思えてくるはずです。
ほんのわずかなことでいいのです。簡単なことから、始めてみませんか。
2008年5月17日土曜日
自分の為に
自分のしたいことをするということに、罪悪感を感じる方もいるかもしれません。
もちろん、人の迷惑も顧みずに傍若無人に振舞ったり、他人から何かを奪ったりすることは、悪いことなのですが・・・
でも、正常な感覚をもっていれば、人を困らせたり、人を悲しませたりしてまで自分だけが得をすることは、本当に喜べることではありませんので、おのずと、したいことからは除外されるはずです。
自分の心に恥ずることなく、胸を張って語れること、見栄や私欲ではなく、心からの充実を感じられることであれば、したいことは、躊躇することなく行っていいのです。
人は、自分の喜びのために生きていいのです。
そのエネルギーが、まわりの人にも幸せを分け与えます。
幸福も不幸も、少なからず周囲の他人に影響を及ぼすからです。
毎日の生活に充実を感じていない人は、他人の幸せを妬み、他人の不幸を願うようになります。
自分の喜びのために生きていなければ、人を愛することはできず、人から愛されることもありません。
樹木は、少しでも深く根を張り、高く成長し、多くの実をつけようとします。
犬は、広場につれていけば喜んで走り回りますし、鳥は、鳥かごから出してやれば、大空へ向かって飛び立ちます。
自分に与えられた能力を最大限に発揮しようと努めることが、生物に与えられた本能であり、生きる喜びそのものなのでしょう。
縁起でもない話ですが、もしあなたの命が、あと数年で終わると判ったなら、残された期間、何をしますか。
あなたが今、思い浮かべたことが、きっと、あなたにとっての理想の幸せの形です。
では、なぜ、それを今すぐに実行しないのですか。
自分が本当にしたいことは何なのか、自分はどういう人間になりたいのか、心からわき上がる声に耳を傾けてください。
自分が求める幸せが、他人の不幸の上に成り立つものでなければ、誰に遠慮することもなく、堂々と求めていいのです。
もちろん、人の迷惑も顧みずに傍若無人に振舞ったり、他人から何かを奪ったりすることは、悪いことなのですが・・・
でも、正常な感覚をもっていれば、人を困らせたり、人を悲しませたりしてまで自分だけが得をすることは、本当に喜べることではありませんので、おのずと、したいことからは除外されるはずです。
自分の心に恥ずることなく、胸を張って語れること、見栄や私欲ではなく、心からの充実を感じられることであれば、したいことは、躊躇することなく行っていいのです。
人は、自分の喜びのために生きていいのです。
そのエネルギーが、まわりの人にも幸せを分け与えます。
幸福も不幸も、少なからず周囲の他人に影響を及ぼすからです。
毎日の生活に充実を感じていない人は、他人の幸せを妬み、他人の不幸を願うようになります。
自分の喜びのために生きていなければ、人を愛することはできず、人から愛されることもありません。
樹木は、少しでも深く根を張り、高く成長し、多くの実をつけようとします。
犬は、広場につれていけば喜んで走り回りますし、鳥は、鳥かごから出してやれば、大空へ向かって飛び立ちます。
自分に与えられた能力を最大限に発揮しようと努めることが、生物に与えられた本能であり、生きる喜びそのものなのでしょう。
縁起でもない話ですが、もしあなたの命が、あと数年で終わると判ったなら、残された期間、何をしますか。
あなたが今、思い浮かべたことが、きっと、あなたにとっての理想の幸せの形です。
では、なぜ、それを今すぐに実行しないのですか。
自分が本当にしたいことは何なのか、自分はどういう人間になりたいのか、心からわき上がる声に耳を傾けてください。
自分が求める幸せが、他人の不幸の上に成り立つものでなければ、誰に遠慮することもなく、堂々と求めていいのです。
2008年5月15日木曜日
あなたの性格は?
世の中は、外向的な性格の人が、とかくもてはやされます。
自己主張の強い者の勝ち、という考えが広まっており、内向的な性格の人は、何となく隅に追いやられ、肩身の狭い思いをさせられてしまっているようです。
もちろん、外向型の人は、それはそれで、大いに結構なことです。
それと同じように、内向的な性格にも、よい面はたくさんあるのです。
外向型の人は、パフォーマンスが派手で、目立つので、注目される機会が多いというだけのことなのです。
世の中のおよそ半分の人は、内向型でしょう。
内向型の人は、外向型の人に対して、つい引け目を感じてしまいがちです。
恋愛や人付き合いにおいても、消極的になってしまい、取り残されたような気になってしまうでしょう。
でも、内向型が外向型に劣るなどということは、絶対にありません。
そもそも、そのように、いつも自分を反省する態度こそが、内向的な性格の特徴といえます。
外向型の人は、よくいえば楽天的、悪くいえば思慮が足りないのです。
内向型の人が、無理をして、外向型の人のように陽気に振舞う必要はありません。
性格というものは、自分の価値観の必然の結果なのです。
人の目を気にしすぎて、自分を見失ってしまうところが、内向型人間の悪い癖です。
外向的な性格の人は、交友も広く、多くの人の人気を得ているように思われますが、実際は、軽く見られ、深く付き合う相手ではないと思われてしまっていることも多いのです。
どんなに友人が多くても、そのうち、真の親友というものは、せいぜい数人しか作れないのですから、同じことです。
信頼を得るという点では、内向型の人の方が、外向型よりも断然、有利です。
芸術の分野で成功する人は、何でも深く突きつめて考える内向型の人が、圧倒的に多いのです。
外向型と内向型の双方の長所と短所があいまって、人間の社会はバランスが取れています。
内向型の長所を最大限に活かす努力をしましょう。
きっと、理解してくれる人はいます。
自分を偽ってまで、他人に合わせることはありません。
自己主張の強い者の勝ち、という考えが広まっており、内向的な性格の人は、何となく隅に追いやられ、肩身の狭い思いをさせられてしまっているようです。
もちろん、外向型の人は、それはそれで、大いに結構なことです。
それと同じように、内向的な性格にも、よい面はたくさんあるのです。
外向型の人は、パフォーマンスが派手で、目立つので、注目される機会が多いというだけのことなのです。
世の中のおよそ半分の人は、内向型でしょう。
内向型の人は、外向型の人に対して、つい引け目を感じてしまいがちです。
恋愛や人付き合いにおいても、消極的になってしまい、取り残されたような気になってしまうでしょう。
でも、内向型が外向型に劣るなどということは、絶対にありません。
そもそも、そのように、いつも自分を反省する態度こそが、内向的な性格の特徴といえます。
外向型の人は、よくいえば楽天的、悪くいえば思慮が足りないのです。
内向型の人が、無理をして、外向型の人のように陽気に振舞う必要はありません。
性格というものは、自分の価値観の必然の結果なのです。
人の目を気にしすぎて、自分を見失ってしまうところが、内向型人間の悪い癖です。
外向的な性格の人は、交友も広く、多くの人の人気を得ているように思われますが、実際は、軽く見られ、深く付き合う相手ではないと思われてしまっていることも多いのです。
どんなに友人が多くても、そのうち、真の親友というものは、せいぜい数人しか作れないのですから、同じことです。
信頼を得るという点では、内向型の人の方が、外向型よりも断然、有利です。
芸術の分野で成功する人は、何でも深く突きつめて考える内向型の人が、圧倒的に多いのです。
外向型と内向型の双方の長所と短所があいまって、人間の社会はバランスが取れています。
内向型の長所を最大限に活かす努力をしましょう。
きっと、理解してくれる人はいます。
自分を偽ってまで、他人に合わせることはありません。
2008年5月14日水曜日
自信のない人
人間は、文字通り、人と人の間にあってこそ意味のある存在ですから、他人からの評価というものは、重要です。
他人の目があるから恥ずかしくない生き方をしようと、プラスに考えられればよいのですが、自分に自信のない人は、いつも他人にどう見られているかばかりを気にして、他人からの評価が自分の価値のすべてであるかのように思い込んでしまいがちです。
人の評価に一喜一憂して、神経をすり減らしていては、きりがありません。
人にバカにされたからといって、あなたの人間としての価値が下がるわけではないのです。
逆に、あなたが誰かのことをバカにしたからといって、その人の価値を下げることができるでしょうか。そんなことは、不可能です。それと同じことです。
自分の値打ちは、自分で決めればよいのです。
人を愛し、愛されるためには、心が健全でなくてはなりません。自分に自信がなければ、他人を尊重することはできません。
自信をもてることの何ひとつない人間は、どうすればいいのかという反論があるかもしれません。
でも、自信をもつということに、特別な根拠などいらないのです。
自分は、この世の中でたったひとりの、かけがえのない存在である。
だから、自分は、生きているというだけで値打ちがあるという理由でいいのです。
どうせ自分なんて、何の値打ちもないと、自分を卑下する人は、本当は、愛されたい、認められたいと願望が人一倍強い人です。
自分が他人から否定されることを怖れすぎるあまり、先に自己否定することにより、けん制してしまっているのです。
厳しい言い方ですが、自信のない人というのは、控えめに見えて、実は、自分のことしか頭にない、ごう慢な人です。
他人が変わらなければ、自分も変われないと思っているから、そこで成長がとまってしまうのです。
まず、心のとらわれをはっきりと自覚し、そこから解放されなくてはいけません。
自信をもてばもつほど、他人を思いやる気持ちが生まれ、謙虚になれます。
自分が大切だからこそ、人も同様に自分が大切だと考えていることを認めてあげられる、それが健全な人間関係というものではないでしょうか。
他人の目があるから恥ずかしくない生き方をしようと、プラスに考えられればよいのですが、自分に自信のない人は、いつも他人にどう見られているかばかりを気にして、他人からの評価が自分の価値のすべてであるかのように思い込んでしまいがちです。
人の評価に一喜一憂して、神経をすり減らしていては、きりがありません。
人にバカにされたからといって、あなたの人間としての価値が下がるわけではないのです。
逆に、あなたが誰かのことをバカにしたからといって、その人の価値を下げることができるでしょうか。そんなことは、不可能です。それと同じことです。
自分の値打ちは、自分で決めればよいのです。
人を愛し、愛されるためには、心が健全でなくてはなりません。自分に自信がなければ、他人を尊重することはできません。
自信をもてることの何ひとつない人間は、どうすればいいのかという反論があるかもしれません。
でも、自信をもつということに、特別な根拠などいらないのです。
自分は、この世の中でたったひとりの、かけがえのない存在である。
だから、自分は、生きているというだけで値打ちがあるという理由でいいのです。
どうせ自分なんて、何の値打ちもないと、自分を卑下する人は、本当は、愛されたい、認められたいと願望が人一倍強い人です。
自分が他人から否定されることを怖れすぎるあまり、先に自己否定することにより、けん制してしまっているのです。
厳しい言い方ですが、自信のない人というのは、控えめに見えて、実は、自分のことしか頭にない、ごう慢な人です。
他人が変わらなければ、自分も変われないと思っているから、そこで成長がとまってしまうのです。
まず、心のとらわれをはっきりと自覚し、そこから解放されなくてはいけません。
自信をもてばもつほど、他人を思いやる気持ちが生まれ、謙虚になれます。
自分が大切だからこそ、人も同様に自分が大切だと考えていることを認めてあげられる、それが健全な人間関係というものではないでしょうか。
2008年5月12日月曜日
人を許すということは
自分を傷つけた人を許すことは、非常に難しいことです。
頭では判っていても、なかなかできることではありません。
もちろん、憎んでいる人を許すということは、大変な勇気のいる、すばらしい行為です。
その許すということさえ、見方を変えれば、ふてぶてしいことなのです。
絶対に許せないというのは、ごう慢以外の何ものでもありません。
人格に問題のある人は、必ず、心の中に、誰かに対する激しい怒りを抱えています。
それは、あまりにも耐えがたい苦しみなので、抑圧し、意識の奥に閉じ込めようとして、ついには本当に忘れてしまうことさえあります。
しかし、いくらごまかしても、無意識の中の怒りの感情が消えたわけではなく、いつまでもくすぶり続け、表の意識をむしばんでいきます。
人を許すことができないなどと言う権利のある人は、この世にひとりもいないのです。
人のあやまちを許せないという人にかぎって、自分のあやまちには目をつぶり、簡単に許してしまうものです。
人間は、一生かかっても、完璧にはなりえません。死ぬまでが修行といえます。
つねに自分をかえりみて、反省し、向上しようとつとめていれば、人を批判する暇などないはずです。
人を許せないのであれば、仕方ありません。もう充分です。こだわるのはやめましょう。
自分を傷つけたのも人間ならば、喜びを与えてくれるのも人間です。
これまで、怒りで目がくらんで見えていなかった、人の優しさ、温かさに触れることができるでしょう。
愛は、怒りよりもはるかに強力な、自分を守る武器となるのです。
頭では判っていても、なかなかできることではありません。
もちろん、憎んでいる人を許すということは、大変な勇気のいる、すばらしい行為です。
その許すということさえ、見方を変えれば、ふてぶてしいことなのです。
絶対に許せないというのは、ごう慢以外の何ものでもありません。
人格に問題のある人は、必ず、心の中に、誰かに対する激しい怒りを抱えています。
それは、あまりにも耐えがたい苦しみなので、抑圧し、意識の奥に閉じ込めようとして、ついには本当に忘れてしまうことさえあります。
しかし、いくらごまかしても、無意識の中の怒りの感情が消えたわけではなく、いつまでもくすぶり続け、表の意識をむしばんでいきます。
人を許すことができないなどと言う権利のある人は、この世にひとりもいないのです。
人のあやまちを許せないという人にかぎって、自分のあやまちには目をつぶり、簡単に許してしまうものです。
人間は、一生かかっても、完璧にはなりえません。死ぬまでが修行といえます。
つねに自分をかえりみて、反省し、向上しようとつとめていれば、人を批判する暇などないはずです。
人を許せないのであれば、仕方ありません。もう充分です。こだわるのはやめましょう。
自分を傷つけたのも人間ならば、喜びを与えてくれるのも人間です。
これまで、怒りで目がくらんで見えていなかった、人の優しさ、温かさに触れることができるでしょう。
愛は、怒りよりもはるかに強力な、自分を守る武器となるのです。
2008年5月9日金曜日
本当の愛
心の温かい両親のもとに生まれ、無条件に愛情をいっぱい受けて育った人は、自信をもち、何ごとも肯定的にとらえることができます。
自分と同様に相手の価値も認め、人を信じ、尊重し、愛することができるから、自分もまた人から愛されるという、いい循環が自然に生まれます。
では、親に愛されなかった人は、どうすればいいのでしょうか。
人間は弱いもので、まず自分が誰かに心から愛されるという経験をもち、その喜びを実感できなければ、なかなか人を愛することはできません。
幼い子供は、親に頼らなくては、生きていけません。
親の存在というものは、自分の世界のすべてであり、生死にもかかわる重要な問題です。
その感覚を引きずったまま、大人になって社会にでると、世の中というものを、家族を拡大したものだと考えてしまいます。
運悪く、冷たい家族の中で育った人は、世間もどうせ冷たいものだと思ってしまうのです。
人に嫌われるということに、死ぬほどの恐怖を感じてしまい、ビクビクと人のご機嫌ばかりうかがってしまいます。
子供の頃にうえつけられた、間違った感覚を捨てなければなりません。
親に愛されなかったことは不運でしたが、それはまさに、単なる不運にすぎなかった、というだけのことです。
世の中には、何も悪いことをしていないのに、交通事故で大けがをしたり、家が火事になったり、なぜ自分がこんな目にと思うような不運に見舞われる人は、たくさんいます。
それと同じで、不運は誰にでも起こりうることであり、仕方のないことです。
逆に、自分には、絶対にいいことしか起こらないと判っていたとしたら、そんな人生が楽しいでしょうか。
運が悪かったのは、自分の責任ではありません。
しかし、不運を嘆いて、心を閉ざしてしまったり、攻撃的になったりして、人から嫌われる人間になってしまえば、それは自分の責任です。
どんなに辛くても、愛される資格を放棄してはいけません。
まず、自分が愛されたかったように、無条件に、誰かを心から愛してみましょう。
その愛が必ず報われるという保証はありませんが、怖れてはいけません。
怖れを感じたなら、それは、相手も当然、自分を愛してくれるべきと、見返りを要求している証拠です。
あなたが理想に描いていた本当の愛とは、そんな恩着せがましいものではなかったはずです。
本当に人を愛したとき、怖れというものは、完全に消え去ります。
愛は、いくら分け与えても、決して減ることはありません。
自分と同様に相手の価値も認め、人を信じ、尊重し、愛することができるから、自分もまた人から愛されるという、いい循環が自然に生まれます。
では、親に愛されなかった人は、どうすればいいのでしょうか。
人間は弱いもので、まず自分が誰かに心から愛されるという経験をもち、その喜びを実感できなければ、なかなか人を愛することはできません。
幼い子供は、親に頼らなくては、生きていけません。
親の存在というものは、自分の世界のすべてであり、生死にもかかわる重要な問題です。
その感覚を引きずったまま、大人になって社会にでると、世の中というものを、家族を拡大したものだと考えてしまいます。
運悪く、冷たい家族の中で育った人は、世間もどうせ冷たいものだと思ってしまうのです。
人に嫌われるということに、死ぬほどの恐怖を感じてしまい、ビクビクと人のご機嫌ばかりうかがってしまいます。
子供の頃にうえつけられた、間違った感覚を捨てなければなりません。
親に愛されなかったことは不運でしたが、それはまさに、単なる不運にすぎなかった、というだけのことです。
世の中には、何も悪いことをしていないのに、交通事故で大けがをしたり、家が火事になったり、なぜ自分がこんな目にと思うような不運に見舞われる人は、たくさんいます。
それと同じで、不運は誰にでも起こりうることであり、仕方のないことです。
逆に、自分には、絶対にいいことしか起こらないと判っていたとしたら、そんな人生が楽しいでしょうか。
運が悪かったのは、自分の責任ではありません。
しかし、不運を嘆いて、心を閉ざしてしまったり、攻撃的になったりして、人から嫌われる人間になってしまえば、それは自分の責任です。
どんなに辛くても、愛される資格を放棄してはいけません。
まず、自分が愛されたかったように、無条件に、誰かを心から愛してみましょう。
その愛が必ず報われるという保証はありませんが、怖れてはいけません。
怖れを感じたなら、それは、相手も当然、自分を愛してくれるべきと、見返りを要求している証拠です。
あなたが理想に描いていた本当の愛とは、そんな恩着せがましいものではなかったはずです。
本当に人を愛したとき、怖れというものは、完全に消え去ります。
愛は、いくら分け与えても、決して減ることはありません。
2008年5月7日水曜日
あなたの感情
不機嫌は、あらゆる害悪のもとです。
子供は、不満があっても、それをうまく表現する言葉を持たないし、大人と対等にわたり合うこともできないので、すねたり、だだをこねたりするという手段を用いるのもやむをえません。
でも、結局、不機嫌からは何も解決策は生み出されないし、むしろ事態を悪化させるだけであるということを学ぶことが、大人になるということではないでしょうか。
不機嫌の原因が相手のせいであっても、自分が不機嫌になるということが、子供じみた行為であることを認識すべきでしょう。
相手に腹が立ったとき、怒りにまかせて文句を言ったり、仕返しをしたりすることが、相手に勝つということではありません。
嫌なこと、辛いことは避けられなくても、不機嫌は心がけ次第で避けられます。
ムカツク、キレルなどという言葉は、自分の甘えや弱さから出てくるものです。
不満があるなら、知恵をしぼって、前向きな解決策を考え出すべきでしょう。
それができない自分、いいたいことをはっきりいえない自分へのふがいなさが、ますます不機嫌を増幅させてしまうのです。
自分をごまかしてはいけません。
誰も、不機嫌な人と仲良くしたいとは思わないでしょう。
ニコニコと機嫌よくしていれば、自然とまわりに人が集まってくるものです。
相手に媚びを売るというのではありません。
媚びを売るのは、自分に自信のない人です。
笑顔で相手に接するということは、相手を尊重するということです。
朝、目を覚ますと、まっさらな一日があなたを迎えてくれます。
あなたは、今日という日を、にこやかに楽しく過ごしますか、それとも、イライラと腹を立てて、台無しにしますか。
子供は、不満があっても、それをうまく表現する言葉を持たないし、大人と対等にわたり合うこともできないので、すねたり、だだをこねたりするという手段を用いるのもやむをえません。
でも、結局、不機嫌からは何も解決策は生み出されないし、むしろ事態を悪化させるだけであるということを学ぶことが、大人になるということではないでしょうか。
不機嫌の原因が相手のせいであっても、自分が不機嫌になるということが、子供じみた行為であることを認識すべきでしょう。
相手に腹が立ったとき、怒りにまかせて文句を言ったり、仕返しをしたりすることが、相手に勝つということではありません。
嫌なこと、辛いことは避けられなくても、不機嫌は心がけ次第で避けられます。
ムカツク、キレルなどという言葉は、自分の甘えや弱さから出てくるものです。
不満があるなら、知恵をしぼって、前向きな解決策を考え出すべきでしょう。
それができない自分、いいたいことをはっきりいえない自分へのふがいなさが、ますます不機嫌を増幅させてしまうのです。
自分をごまかしてはいけません。
誰も、不機嫌な人と仲良くしたいとは思わないでしょう。
ニコニコと機嫌よくしていれば、自然とまわりに人が集まってくるものです。
相手に媚びを売るというのではありません。
媚びを売るのは、自分に自信のない人です。
笑顔で相手に接するということは、相手を尊重するということです。
朝、目を覚ますと、まっさらな一日があなたを迎えてくれます。
あなたは、今日という日を、にこやかに楽しく過ごしますか、それとも、イライラと腹を立てて、台無しにしますか。
2008年5月5日月曜日
嬉しい気持ちを
人を愛すれば、自分も愛されたいと願うのは当然のことです。
でも、相手は自分のことをどう思っているのかということばかり気にして
臆病になったり、卑屈になったり、嫉妬に駆られたりしては、
自分が辛い思いをするばかりでなく、相手にも負担を与えてしまいます。
身勝手な愛情は、思い通りにならなかったときには、
憎しみ、恨みに変わります。
相手の立場になって考えてみてください。
警戒しながら接してくる人のことを、好きになれるでしょうか。
私はあなたのことが好きなのだから、
あなたも私のことを好きになるべきですという
押し付けがましい態度は、まったくの逆効果です。
それは愛ではなく、自分の自尊心を満たすために、
相手を利用しようとしているだけなのです。
人を利用し、支配しようとすることは、
愛とはまったく対極の行動です。
あなたが相手に利用されるために生きているのではないのと同じように、
相手もあなたに利用されるために生きているのではありません。
相手の心を、コンピュータに命令を与えるように操作することは、不可能です。
不可能なことにやっきになって、神経をすり減らしても仕方がありません。
人を愛するためには、強い意志とともに、開き直りにも似た淡白さも必要です。
恩着せがましく愛を要求すれば、
相手はたいてい、息苦しさを感じて、離れていきます。
あなたが私をどう思おうと構いません。
ただ、私は、あなたの側にいて、あなたと話をすることが、嬉しくて仕方がないのです。
そういう態度の方が、はるかによい印象をもたれるのではないでしょうか。
素直に、無邪気なほどに、自分の好意を表現するだけでいいのです。
自分と一緒にいることを楽しんでくれる人を嫌いになる人は、まずいないでしょう。
自分にできるかぎりのことをして・・・
でも、相手は自分のことをどう思っているのかということばかり気にして
臆病になったり、卑屈になったり、嫉妬に駆られたりしては、
自分が辛い思いをするばかりでなく、相手にも負担を与えてしまいます。
身勝手な愛情は、思い通りにならなかったときには、
憎しみ、恨みに変わります。
相手の立場になって考えてみてください。
警戒しながら接してくる人のことを、好きになれるでしょうか。
私はあなたのことが好きなのだから、
あなたも私のことを好きになるべきですという
押し付けがましい態度は、まったくの逆効果です。
それは愛ではなく、自分の自尊心を満たすために、
相手を利用しようとしているだけなのです。
人を利用し、支配しようとすることは、
愛とはまったく対極の行動です。
あなたが相手に利用されるために生きているのではないのと同じように、
相手もあなたに利用されるために生きているのではありません。
相手の心を、コンピュータに命令を与えるように操作することは、不可能です。
不可能なことにやっきになって、神経をすり減らしても仕方がありません。
人を愛するためには、強い意志とともに、開き直りにも似た淡白さも必要です。
恩着せがましく愛を要求すれば、
相手はたいてい、息苦しさを感じて、離れていきます。
あなたが私をどう思おうと構いません。
ただ、私は、あなたの側にいて、あなたと話をすることが、嬉しくて仕方がないのです。
そういう態度の方が、はるかによい印象をもたれるのではないでしょうか。
素直に、無邪気なほどに、自分の好意を表現するだけでいいのです。
自分と一緒にいることを楽しんでくれる人を嫌いになる人は、まずいないでしょう。
自分にできるかぎりのことをして・・・
2008年5月3日土曜日
自分の欠点
何らかのコンプレックスをもっているために、
人間関係に対して積極的になれない、という人も多いでしょう。
でも、コンプレックスは、
はっきりと自覚していれば、悪いことではありません。
むしろ、人間として正常な心理状態といえます。
いい部分も悪い部分もひっくるめて、
それがひとつの人格なのです。
欠点があることよりも問題なのは、欠点を認めないことです。
自分の欠点を認めようとしない人は、
他人の欠点も許すことができません。
いつも不機嫌で、近寄りがたい人という印象を与えてしまいます。
自分の欠点を隠すことに精一杯で、成長がありません。
人間であれば、誰でも欠点をもっています。
それぞれ、その種類が違うというだけのことです。
皆、互いに許し、許され合っているのです。
悪意のない欠点であれば、
無理に直そうとする必要はありません。
自分を否定しようとすると、かえって自己嫌悪が強まり、
ますます自信をなくしてしまうという
悪循環に陥る可能性があります。
素直に欠点を自覚しさえすれば、それでよいのです。
笑い飛ばすことができれば、もっと理想的です。
何より、あるがままの自分を受け入れることです。
自分を好きになれば、欠点など知らないうちに直ってしまうか、
まったく気にならなくなるか、
いずれにしても、自然によい方向に向かうことでしょう。
人間関係に対して積極的になれない、という人も多いでしょう。
でも、コンプレックスは、
はっきりと自覚していれば、悪いことではありません。
むしろ、人間として正常な心理状態といえます。
いい部分も悪い部分もひっくるめて、
それがひとつの人格なのです。
欠点があることよりも問題なのは、欠点を認めないことです。
自分の欠点を認めようとしない人は、
他人の欠点も許すことができません。
いつも不機嫌で、近寄りがたい人という印象を与えてしまいます。
自分の欠点を隠すことに精一杯で、成長がありません。
人間であれば、誰でも欠点をもっています。
それぞれ、その種類が違うというだけのことです。
皆、互いに許し、許され合っているのです。
悪意のない欠点であれば、
無理に直そうとする必要はありません。
自分を否定しようとすると、かえって自己嫌悪が強まり、
ますます自信をなくしてしまうという
悪循環に陥る可能性があります。
素直に欠点を自覚しさえすれば、それでよいのです。
笑い飛ばすことができれば、もっと理想的です。
何より、あるがままの自分を受け入れることです。
自分を好きになれば、欠点など知らないうちに直ってしまうか、
まったく気にならなくなるか、
いずれにしても、自然によい方向に向かうことでしょう。
2008年5月1日木曜日
小さなこだわり
自分なりの信念、こだわりをもち、それを貫くことは重要です。
でも、この「こだわり」というものは、なかなかの曲者で、
頑ななまでの偏狭なこだわりは、視野をせばめ、
人間関係においてさまざまなトラブルを招きます。
あなたの「こだわり」は、
あなたの人間性を高め、人生を豊かにするものでしょうか。
そうでないなら、そんなこだわりは、
すっぱりと捨ててしまうべきです。
つまらないこだわりは、
自分の劣等感や不安を打ち消そうとする気持ちから生まれます。
他人のちょっとした言動に腹を立て、
わだかまりがなかなか消えないときは、
大きく深呼吸をして胸の中でこう唱えましょう。
「つまらない人間ほど、つまらないことにこだわるものだ。
自分は、決してつまらない人間などではない」と。
小さなこだわりを捨てれば、
心に余裕が生まれ、ストレスも減少します。
他人を受け入れる広い度量をもてば、
また他人からも受け入れてもらえます。
それは決して、主体性をなくして
他人に迎合するということではありません。
水は、器に合わせて自在に形を変えますが、
水という成分自体が変化するわけではありません。
水のように、柔軟に、しなやかに生きていきたいものです。
確固たるポリシーをもっている人ほど、
他人の異なる考え方も認めてあげられるものなのです。
でも、この「こだわり」というものは、なかなかの曲者で、
頑ななまでの偏狭なこだわりは、視野をせばめ、
人間関係においてさまざまなトラブルを招きます。
あなたの「こだわり」は、
あなたの人間性を高め、人生を豊かにするものでしょうか。
そうでないなら、そんなこだわりは、
すっぱりと捨ててしまうべきです。
つまらないこだわりは、
自分の劣等感や不安を打ち消そうとする気持ちから生まれます。
他人のちょっとした言動に腹を立て、
わだかまりがなかなか消えないときは、
大きく深呼吸をして胸の中でこう唱えましょう。
「つまらない人間ほど、つまらないことにこだわるものだ。
自分は、決してつまらない人間などではない」と。
小さなこだわりを捨てれば、
心に余裕が生まれ、ストレスも減少します。
他人を受け入れる広い度量をもてば、
また他人からも受け入れてもらえます。
それは決して、主体性をなくして
他人に迎合するということではありません。
水は、器に合わせて自在に形を変えますが、
水という成分自体が変化するわけではありません。
水のように、柔軟に、しなやかに生きていきたいものです。
確固たるポリシーをもっている人ほど、
他人の異なる考え方も認めてあげられるものなのです。
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